「どいて…、エミール。私の味方だと言ったじゃない。」
黒の淑女は瞳を悲しげに揺らして言う。
金色の長い髪が風に、瞳は身を揺るがす激情に。
「……。俺は君の味方だとも、だからこそここは通さん…この命に換えてもな。」
白の騎士服。長身を姿勢よく伸ばして佇む青年。
青い双眸に力を込め、まっすぐに。揺れる彼女を見据えて。
あぁ…彼はかくも確固としている。
まるで有史以前より国を守ってきた山脈のように揺るがない。
それは頼もしく、眩しく――…この上なく苛立たしい。
「…アハ。アハハハハハハァアハハハッ!」
身を焦がす苛立ちに耐えかねて、狂ったように笑い出す彼女。
「……。」
青年の青い瞳が、ただ静かにそれを眺めた――哀れむように。
刹那、彼女の嬌声が消える。無表情、次に赤い瞳が憤怒に燃える。
殺意の激情を燃え上がらせ、鋭利な刃のような視線を向けて。
「…ッ! 私を哀れむのか――エミールッ!!」
腹と口と喉が裂けんばかりの叫び。
その衝撃を受けても、彼は静かな湖畔のような青い瞳を彼女に向けて佇む。
「……、…あぁ。」
静寂。うっすらとひげの生えた口元を開く。
「あぁ。君は哀れだ、イルヴァ。」
確かな足取りで一歩近づく。
「…ッ……、寄るなッ!」
彼女の憤怒の形相が恐れとも悲しみともつかぬ表情に変わる。
幾ばくかの怒りを頼りに、犬歯を剥き出しにしてにらみつける。
「あの日。俺は君を止めるべきだった、例え君に嫌われようと、絶望されようと……だが、俺は怖かった。」
「俺の弱さだ。…それが、君をここまで追い詰めてしまった。」
彼が一歩近寄るごとに彼女の恐れは増していく。
慄いた表情で後ずさり、目をいっぱいに見開いて首を左右に振る。
「…うるさい。…来るな、――来ないで!」
背後の壁に背が触れた。
逃げ場が無くなれば、引きつけを起こしたような表情で長身の彼を見上げる。
「……これ以上来れば…刺す。」
奥歯を噛み締め、懐刀をお腹の前に添えて彼に向ける。
彼は彼女の叫びと、続く短刀の煌きに一瞬だけ足を止めて。
「……。」
まるで全てを覚悟したかのような表情で。あの湖の湖畔のような静けさで歩を進める彼。
彼女の顔が一層の恐怖に引きつり、困惑して首を振って、何かを探るように足を踏みしめて。
「――来ないでぇッ!!」
鈍い衝撃音――。
彼女の小柄な体が、長い金髪を流して彼の長身に納まった。
その手には短刀。煌く鋼は今や彼の腹部に突き刺さり、両手は朱に染まっている。
「…ぁ…あ、…あぁ……っ。」
すぐさま広がる赤い血溜り。
彼女の恐れおののく顔に驚きと後悔が広がっていく。
取り返しの付かない一線を越えた――死。その一文字が脳裏に浮かんで。
血にぬれたナイフ。
強張った両手はそれをしっかり握り締めて離さない。
白魚のような手は、今や血の朱に染まっていた。
どうしようもない感情の波。
髪を左右に振り乱して、途方に暮れる彼女の華奢な体を。
青年はその両腕でしっかりと抱きしめた。
壊れそうな程に細い身体。
この小さな身体に、今までどれほどの苦悩をたたえて来たのだろう。
張り裂けそうな程の困惑に今も苛まれ、抱きしめた時の身の震えに一層強く抱きしめて。
「…すまなかった、イルヴァ。」
無骨な彼らしく、低い木管楽器のような響く声で発した短い言葉。
それはどこか可笑しくて、不器用で…昔の懐かしかった記憶を思い出させる。
ティコの森。明るい木漏れ日の野で採れるハーブとお茶の香り。
それは彼女の張り詰めた心を留める、最後の決壊を打ち崩した。
「…っ……っぅ…。」
泣き顔を見せまいと彼の胸に顔を埋めて。
がっしりした彼の体躯は、その衝撃をしっかりと受け止めた。
苦痛を気合で押し込めて。胸の中の体温に、厳格な口元を綻ばせて。
「…辛かったな。」
「…っ!………ッ!」
反論する代わりに胸板を叩き、一通り叩いて疲れると背中に手を回して強く顔を押し付けた。
白の騎士服が血に染まり、涙の染みを作る。
ついでに言うとお腹もシクシクと痛んでいるし、並みの男なら死んでいるかもしれない。
だがそこは騎士の本懐。なにより、彼女のこれまでを思えば些細なものだった。
「…。」
涙を拭って、揺れる大きな瞳で彼の顔を見上げれば。
そこには厳つい顔を精一杯に優しく微笑ませようと努力した無骨で不器用な笑み。
…あぁ、彼は変わってないのね。
思わず彼女も泣き笑いを返して。二人して微笑み合った刹那。
「……。」
彼の口元から一筋の血が流れた。
笑顔のまま”ツー”と垂れてくる血に、ようやく彼女は現実に立ち戻った。
「…あ、…あ!エミール、ごめんなさい!傷の手当てを――。」
口元を抑えて、慌ててあたりを見渡し、包帯の代わりにしようとドレスを裂こうとするその手。
自分の血に染まっても愛しいその手を彼は取った。
「…、…俺のことは……許してもらえなくても仕方ない。だが、復讐はもう止めてくれないか。」
血にぬれた手に気にする風もなく。暖かい無骨な手で彼女の手を包み、青い瞳でまっすぐに視線を向ける。
それはとても不器用で、無骨で。
でも顔には“本当は許してほしいけど”と書いてあり。その分かりやすい不器用さがどこか愛らしい。
思わずこみ上げてくる微笑を、これまでの記憶が止めた。
赤の双眸に恨みがましい視線を込めて彼を見上げる。
「…私を見捨てたくせに、いまさら指図する権利があるのかしら?」
挑発的に怒りを込めた視線を向ける。
う、と詰まり。しどろもどろに「…いや、…でも。」とつぶやく彼。
ここまで言われて、お腹にナイフも生やしているというのに口を開いて出てくる言葉は、かつて木登りや遠乗りを危ないからと怯えながらも諌めてきた少年の頃から変わらない。
「…ふぅ。」
卑怯だよ…あんな表情。
もはや目を怒らせる事に限界を感じた彼女は、感情を隠すためにため息を漏らし、やれやれとばかりに微笑み見上げた。
「……。」
そんな顔されたら、もう怒ってはいられない。
どこか悔しいような気がして。
しばし考え、そしてニマリと悪戯っぽい流し目を向ける。
「貴方は“お願い”ばっかりね。エミール?」
ぅ、と詰まるまじめ顔。
今頃は真剣に“そうだ、私は彼女に強いてばかりだった…”とか考えているのだ。
そんな仕草に昔のように笑い出すのをどうにか堪えて、敢えて不満そうに口元を尖らせる。
「フェアじゃないわぁ。」
不貞腐れたように視線を逸らせば、不安そうな青の瞳が追ってくる。
まるでレトリーバーの子犬のようだ。歳を取っても変わらない、彼の本質。
「ど、どうすれば…?」
おろおろとうろたえる長身の彼に一歩詰め寄って。
射るような視線――になっているだろうか。微笑んでいるような気がして自信がない。
「私を喜ばせて、エミール。そうすれば今回の事は許してあげる。」
華奢な背を一杯に伸ばして。敢然と彼を見上げて――ゆっくりと瞳を閉じた。
「…え。」
予想通りの反応。
図体は大きくなって。周辺の豪族から武名によって恐れられる彼。
しかし“この辺”は少年時代から成長が見られない。
「ど……」
たぶん”どういう意味”と尋ねようとしてさすがに控えたのだろう。
もし言っていたら思いっきり足を踵で踏みつけてやるところだ。
彼女も決して緊張していないわけではない。
むしろ赤らんだ頬。緊張した口元。握り締められた手がその感情を如実に語っている。
“覚悟を決めろ…エミール。”
これまでのあらゆる絶望的な戦いよりも緊張しながら深く首肯し――。
「……ん。」
ほんの短い間の接触。
彼女の小さな声と共に唇が離れていった。
どことなく不満を覚えながらも、彼の性格を考えれば相当な覚悟が必要だったろう。
彼女は薄く微笑めば“及第点”とばかりに頷いて、彼はほっと胸を撫で下ろす。
「ほら、いくら頑丈な貴方でもいい加減に治療しないと。」
しゃがみ込み、ドレスを切り裂こうとすると“これくらい慣れて…”との反論を鋭い視線で一蹴して。
おどおどする彼をわき目にテキパキと傷口に布を巻き、目を閉じて手のひらを当てれば淡い燐光。
ヒーリングでひとまず傷口が塞がったのを見れば満足げに微笑んで見上げる。
「――…浮気したら“お腹”じゃ済まないから。」
背筋の凍る一言に思わず首筋を抑えるハイゼ青年。
まるで猫のように腕を組み、甘えてくる彼女の髪の芳香を嗅ぎながら、彼は自分が初めて“負け戦”を喫したことを感じ――。
「…あぁ。」
力強く頷きながら、驚異的な喜びに満たされていた。
もっとも、その中に幾ばくかの恐怖も混じっているのだが、それは騎士の度量である。
あとがき
あぁ、初めて起承転結の“結”までいくことができました。
やっぱり僕は“あれもこれも”とやろうとしすぎて的が絞れなかったのかも。
コツがつかめてきたように思います。
さて、ハイゼおじいさんとその奥方イルヴァさんの若かりし日の物語。
イルヴァさんはおじいさんの生まれた城近くの森に住むエルフで、二人は幼馴染なのでした。
エルフに敬意を表するお家柄、ほかの貴族の子がそうであるように、彼の仕事はエルフのお姫様の遊び相手だったわけです。
頑健な肉体を持ちながら気優しかった彼はおてんばな彼女に振り回されつつも、よい意味で楽しく過ごしておりました。
しかしその後、王の治世が危うくなり乱世が始まって――。
一度目の大戦の終わりに、彼らは数々の因縁を乗り越えて結婚します。
定命のさだめにある人間と、長命のエルフの夫婦。もっぱらイルヴァさんが彼の手綱を握る形でうまく乱世と乱世の間、不安定な平和の時代を渡って楽しく過ごします。
子供も幾人か生まれましたが2度目の大戦でその殆どを亡くし、あるいは行方不明となり。
イルヴァさんにも先立たれてしまうのでした。
しかし今でも彼は、暖炉の片隅の揺り椅子に腰掛け。
騎士団詰め所の私室。そのぼんやりと薄暗い室内を照らす炎の煌きに彼女の笑みを思います。
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