セドリックは部下のジョセフに自分の仕事を任せると、倉庫を出て夜風の心地よさに眼を細めた。
夕ごろの茜色は消えて、三日月が家々の屋根を明るく照らしている。吹く風は冷たい……そろそろ冬が来るかな。一人ごちつつ歩いていると、門の影に人影を見つけて、小柄なシルエットが自分の知己であることを認めて口元を歪めた。
両手を頭の後ろで組みつつ、悪たれ大将のような悪い笑みで声をかける。
「こんな場所で、こんな時間に佇んでいると悪いオオカミに襲われるぞ、かわいいひつじ殿?」
声を掛けられて小柄な人影は軽やかに彼へと振り返り、2歩進めば月明かりが"彼女”の顔半分を明るく照らした。青い澄んだ瞳が喜色を浮かべて。
「セドちゃんッ!」
言うや否やセドリックの腹部へ彼女の頭がめり込んだ。「ゴフゥッ!」と彼の顔が苦痛に歪み、口から大きく息が漏れるが、がっしりと彼の背中へ手を回している彼女の頭頂部を眺めていると文句を言う気も消え去った。悪党のような笑みに幾分か優しさが加わって、苦笑したような顔になる。ポン、と彼女の頭に手を置くとかいぐりしながら、
「ちゃん付けは勘弁してくれ。」
「えー?セドちゃんは、いくつになってもセドちゃんだよ?」
そう言われると返す言葉もない、苦笑を深めればお返しとばかりに彼女の髪をクシャクシャにしてやる。相変わらず綺麗な柔らかい髪だと思う、長くても痛まないし、自分の髪とは大違いだ。手の下からは不平の声とも喜色の声ともつかぬ抗議の呻きが聞こえてくる。これくらいにするか、と手を離すと彼女は慌てて手櫛で髪を直し始めた。
「迎えに来てくれたんだろう? ありがとうな。」そう言うと彼女は手を止めて嬉しそうな顔で頷く。とはいえ、彼にとっては冗談ではなく本当に心配だ、もっとも、それを言って聞く彼女ではあるまい…。内心ではそう思いつつ、彼は苦笑しながらなるべく丁寧に口を開いて、
「……だがな、リリア。ここら辺は本当に危険だ。早く帰るから、できれば一人で迎えに来るのは……控えてくれないか?」
しかし案のリリアと呼ばれた少女は喜色を浮かべたまま、微塵も表情を変化させずに言う。
「だって迎えに来ないとセドちゃん酒場に行っちゃうじゃない。」
なにやら仰々しい、それこそ”ゴゴゴゴゴ”などという背景音が響いてきそうなオーラをリリアは発していたが、セドリックとて負けじと傲慢にふんぞり返る。
「酒は友だ。俺は友人を見捨てるほど薄情な男ではない!」
「じゃあ一人さびしく家で待つ恋人は見捨てても良いのね?」
その言葉に「うぐ、」と思わず詰まる。酒は大切だし、部下とも騒ぎたい。だが往々にして、彼女を犠牲にしてきたことも確かである。セドリックは彼女以外には殆ど使われない”後ろめたさ”という感情をフル回転させた結果、ついに陥落し。「……その、スマン。」と言いにくそうに呟けば、「いいのよ、セドちゃん。」とリリアが有無を言わさぬ笑顔で腕を組んでくる。
(リリアには生涯、頭が上がるまい。)
ありがたいような、恐ろしいような、色々入り混じった表情で笑みを返せば、彼女に引かれるようにして家路に着くのだった。
―――――
――――
―――
……
二人は月夜の路地を歩く。人気はなく、静寂と夜の風が吹き抜けていくのみで、石畳をたたく二人分の足音が乾いた音を響かせていた。セドリックは腕に密着するリリアの機嫌良い鼻歌を聴きながら、出陣の事をいつ切り出そうかと憂い考えていた。
月を見上げて目を細める。部下には明るく言ったが、本当に、彼は勝算があるから引き受けたわけではない、より敗算の高い状況に追いやられる事を避けるために引き受けたのだ。3倍もの防城軍に勝つ方法など知らない。
リリアがふと、そんな彼の様子に気づいて不安そうな視線で見上げてきたが、憂いに沈む彼はそれに気づかず月を見上げていた。部下、同僚、彼女以外の人には決して見せぬ、本当の顔がそこにはあった。
彼は現実主義者である、わずか3分の1の兵力で勝つ確率がゼロに限りなく近いことなど理解していた。14歳の頃、父に逆らって一兵卒から軍歴を積み、数え切れぬ血戦を経験したからこそ判る。寡兵が大軍を破り受ける賞賛の大きさは、戦史上、それが非常に稀であることの裏返しなのだ。
「……ちゃん。 ――セディちゃん!」
傍らからの呼び声にはっと我に返り、なんとか微笑みを浮かべて彼女を見やる。
「どうした、リリア?」
言うや否や、彼女の表情が曇る。 ぐっと、何かを堪えるような顔だ。
そして青ざめた顔で搾り出すように言葉を紡ぐ。
「……お父様の友人が談話室で噂していたわ、政治上の妥協から、どこかの部隊が捨て駒にされるって。気の毒な連中だなって笑っていたわ。 ――…あなたの部隊だったのね。」
苛烈な怒りと、深い悲しみを心の奥にたたえた底冷えするような声。
彼女の怒りは貴族たちへ、悲しみは彼を失うであろうという恐れへ。
セドリックは頷きつつ、言葉を捜して口を開きかけたが、泣き笑いを浮かべた彼女に手で制される。
痛々しい笑み。 出来ることなら一生、彼女にこんな顔はさせたくなかった。
「……避けられない現実なら、嘆いていても仕方がないわ? 晩御飯にしましょう、今日はとっておきのスープを作ったの!」
彼は口を閉じ、そして端をなんとか持ち上げておどけて微笑む。
「あぁ、お腹ペコペコ、だ。」
彼女が手を口元に当ててクスクスと笑い、彼も一緒になって「ガハハ」と笑う。
――石畳の路地に、乾いた足音が二つ響いて、やがて消えた。
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