アドロードに夜の帳が訪れる。
家々の赤い屋根を闇夜に浮かぶ満月が明るく照らして。
それは薄暗い路地の汚れた床石すら光を反射させて足元を進む道しるべとなっていた。
一人の少年が路地を進む。
アドロードに出現した3本の塔。そこから伸びる道を帰る足取りは重い。
まっすぐな蒼い髪は闇夜のよう。ほっそりした鼻筋に美しい弧を描く眉。万年雪の積もる高山のように抜ける白い肌。しかしそれは過分に青ざめて、額には玉の汗が浮かんでいる。
呻くようにしてしばし歩く、胃をねじられるような不快さ。
規律を忘れた脈拍が踊り狂い、今にも気まぐれに鼓動を止めてしまいそうな予感がした。
(……あぁ、もうそれでもいい)
荒い呼吸で思わず何かを罵るが、口を開いても喘ぐような音しか漏れてこなかった。
どれほど歩いただろうか。朦朧とする意識では正確に時間を計ることはできなかったが、ふと白む視線を上げれば見慣れた家…路地裏の比較的浅い区画にある古い一軒屋が見えた。
一見してそれは苔むした石の壁が続いているようにしか見えないが、壁が崩れた一角を乗り越えるとそこには延びきった芝生と不気味に佇むお化け柳が不規則に乱立し、その茂みの向こうに隠れるようにして小さな平屋の窓が覗いている。
石造りの壁にアーチを描く入り口には古びた木の扉がついていて。
それはどことなくメルヘンチックな、まるで童話に出てくる魔女の家のような風情を持っていたかもしれない。
重い体を引きずるようにして扉を開ける――鍵はかけていない。扉は軋むような悲鳴を上げて開かれ、できた隙間に身を滑らせれば居間に出る。
ひと気もなければ生活観もない、テーブルと椅子、簡素な台所が備えられただけの殺風景な埃っぽい部屋。
一瞥も暮れることなく寝室へと向かう扉に手を当てて。
扉を開ければ――そこには見事に何もない。ただ小さな窓が闇夜に浮かぶ満月を映し出し、室内をやわらかく包んでいただけだ。
けれど彼は驚く様子もなく傍らの燭台に手を伸ばす。汗のにじむ手で呻くようにして押し下げれば。
パカッ なんとも拍子抜けする音と共に隅の床板が一枚外れて飛び出してきた。
そこには四角い闇が広がり、地下室の存在を示している。無表情に歩み寄れば穴に身を落として、落ちた。
ここに住んでいたのは本当に"魔女”だった。
湿気っぽい地下室には彼女の残していった遺物の数々が残されている。
まず地下室の入り口にはやわらかなマットが敷き詰められている。これは闇の植物の亡き姿らしく、かつては動いたであろう触手はただの反発するゴムとなって来訪者を沈黙を持って迎えている。
無数の部屋から成る地下室は地上の建築物よりはるかに広く、そして陰湿だった。
「
おぉぉやあぁぁ、帰ってきたのかいぃ?」
それは狂いを帯びた老女のしわがれ声。無数の扉のひとつを開ければ軋むそれを手にぎらつく目を覗かせて。山姥のように裂けた口を開く。
常人が見れば嫌悪感に後ずさり、気の弱いものなら気絶してしまうであろう禍々しい姿。
けれど少年は憔悴しきった顔にかろうじて微笑みを浮かべていた。
「…ただいま、おばあちゃん。また”きた”みたいなんだ。」
言えば老婆は大げさに頷いた。相変わらず表情は狂った笑顔。大きすぎる不気味な瞳を見開いて彼を凝視している。
「
まぁあぁったく。お前は姿かたちばかりじゃなく――」
「…体質まで女の子みたいだねぇえぇ。」
彼の"発作”はたいてい満月の夜、一定周期にやってくる。
老婆はそれを女性の月のものに例えたのだろう、おかしそうに"ヒッヒ”と笑っている。
ジョークとしても下世話だし、平時でも付き合えたか怪しいが。それ以上に今は”最悪”だ。
彼は汗の浮かぶ顔にどうにか苦笑を浮かべて口を開く。
「
おばあちゃん…悪いけど休ませてくれない…? ”これ”が来てるときは死ぬほど辛いんだ。」
「
おぉおやぁあ? 街の女の子だってそういいながらもちゃんと働いてるよぉぉ?」
思わず上目遣いに冷視線を浴びせてしまう。
「…、……ここで倒れてもいいっていうんだね?」
すねたように一言つぶやいてやれば。
「
おぉぉおおおぉおお!それはやめておくれぇぇ。私の研究の
じゃああまああだからねぇえぇ。」
効果はてき面だ。この老婆は自分の探求を邪魔されることを昼間の太陽以上に嫌っている。
「こちらええおいでよぉお。お前が"また”勝手に歩き出さないようにあたしが見張っててあげるからねぇえ。」
まるで鍵爪のような長い指をわしゃわしゃと大げさに動かして、彼を奥へといざなう。
そこは壁をくりぬいて作った寝台で、普段は老婆が使っているのだろう。カーテンの向こうにはこれ以上ないほど汚れきったベッドが壁の中の空間に納まっている。
「…ありがとうおばあちゃん。…そうさせて、…もらうよ。」
しかしもはやそれを気にする余裕はない。
半ば飛びかけた意識を気力でつなぎとめてベッドに倒れこむ。
老婆が震える手つきで毛布をかけてくれるが、それは幾十年も凝縮された体臭のような饐えた臭いがした。
「
おぉぉやあぁすみぃぃ、わたしのかわいいお嬢ちゃん。」
もはや突っ込む気力もなければ。
その人間離れしたギョロつく瞳で一心にこちらを見つめているのも気にならない。
ただ限界まで消耗した体を休めるために、まどろみの中へと意識を溶けさせていった。
PR