トップデッキは戦闘前の狂騒に満たされたいた。砲を引き出す作業はほぼ終わったものの、火薬を配置したり空兵隊の軍曹が兵らを整列させて銃撃戦に備え激を飛ばし、砲手どもが来る砲戦に沸き立ち騒いでいる。
そんな中、飛びぬけて小柄な艦長は少々背伸びをしながら、凛と背筋を伸ばし一心に望遠鏡を覗いていた。となりでは家令が手を組みながら控えている。口元には上品だが厳格で、そして不敵な笑み。
「うん、やはり方法は一つだ。一方的に砲撃にさらされるのは……まぁ仕方ない。虎口にいらずんば虎子を得ず、これより当艦は敵艦に突撃する。目標はレキシントン続いてレグニア、この際小細工は無用だ、敵艦の予測進路にあわせ真っ直ぐに航行せよ。」
「アイアイサー!」
階下に控えていた掌帆長が元気良く応答し、次に部下を怒鳴りつけている。
家令はそんな様を心地よく眺めながら、艦長へ頷いた。
「では武器を取ってくると致しましょう。」
「頼む、やはり役に立ったな……食費を削ってまで購入した甲斐があったというものだ。」
「ははっ、業物のサーベルもただ壁に飾られるのでは不本意でありましょう、では。」
悠然とした動作で背筋を伸ばしながら家令がアンダーデッキへ消えていく。全力航行中の船は空中とはいえ気流の影響などを受け大きく揺れる、それでも揺れを感じさせない確かな足取りが彼の軍歴の長さと戦意の高さを思わせた。
「……、」
しかし一方で、家令が居なくなり、部下達がめいめいの作業に集中して自身に一切視線が来なくなったのを認識した艦長の表情が一瞬だけ曇る。この戦いでどれだけの部下が犠牲になるだろうか。そしてそもそも自分達は勝てるのだろうか……。
負ければ令嬢は敵の手に落ち、その身柄は家元に対する人質として政治交渉のカードにされるだろう。そうなればその責任が自分と部下に降りかかる……ただでさえ薄給で暮らす自分達に貯金などあろうはずはない。職を失えばその瞬間から乞食と同じレベルに転落する。
部下を死なせるやもしれぬ、必死で戦い生き残ったとしても、負ければ路頭に迷わせることになる……。
背筋が薄ら寒くなるのを肩を持ち上げて誤魔化しながら、彼は無理にも笑った。
――艦長が弱気を見せてどうなる。
「さぁ諸君!間もなくお待ちかねだ、サーベルは持ったか?マスケットの火薬は乾いているかッ! 砲手長、初弾観測は君に任せる。」
「ご信用、感謝の至り。」
砲列に控えていたスキンヘッドの砲手長が物騒な笑みで優雅な礼をする。
そして家令が立派なサーベルを手に艦長の前へ現れた、辞儀を一つ、優雅な所作でサーベルを差し出し、艦長が満足げな笑みを浮かべ頷きつつ受け取った。刀身を抜き放てば、太陽に反射し眩い光が目を刺激する。輝く刃を眺めながら、再び頷いた。
「うん……願わくばこの剣が朱に染まる機会を得られんことを。」
「フリゲート……砲戦距離ッ! 右舷よりレキシントン砲撃来ますッ! レゾニアは右舷を迂回し背面を狙う模様!現在航行中ッ!」
もはや望遠鏡を覗くまでもない。優美にして立派なゲルマニア艦の船体のタールが太陽に反射して鈍く光る、甲板上で駆け回る敵将兵、舵の傍には姿勢良く佇む、敵の艦長の姿も見えた。
「……ふっ、狙撃も恐れないか。船を預かるものとはそういうものだ――銃兵ッ!マスケットはまだ撃つな!今撃ってもどうせあたらん。」
その瞬間、空気を揺るがす轟音。レキシントン左舷の砲列が一斉に火を噴き噴煙で船体が隠れた。それを知覚した瞬間には幾発かの命中弾がソフィー号の横腹に衝突し、木材の破片が砲手たちに降り注ぐ。
「ぐぎゃあああああ!」
「ひぃぃ、足がッ! チクショウ俺の脚がぁああ!誰か砲をどけてくれ、誰かぁーッ!」
或る者は散弾のように飛来してきた木片に顔面を穿たれ、或る者は吹き飛んできた砲に足を潰されのた打ち回る。そんな地獄絵図の中で砲手長が手を組みながら悠然と歩く。
「びびるんじゃねぇ、タマ付いてんだろうが貴様ら。今は我慢の時だ、もうじき……的の方から俺達の前にやってくる、今は耐えろ。」
レキシントンは砲手長の管制を止め、各砲手の判断で撃ち方を始めた。断続的に降り注ぐ砲弾、張り裂ける横材……それは帆をずたずたに引き裂き、マストを一本折り、艦長が手を載せていた手すりを空のかなたへ吹き飛ばした。
その間にも互いの船は進み、まもなくレキシントンがソフィー号の右舷の前に進み出てくるだろう。
「ふ、ふふふ……生き残ったな。」
頬から血を流し、むせ返るような硝煙と血肉の臭いの中、白い手袋を煤で真っ黒にしながら艦長は拳を握った。
傍らでは場違いなほど涼しい顔で家令が頷いている。
砲撃の中でもペースを乱さず、部下の間を歩いていた砲手長が、待ちかねていたとばかりに怒鳴った。
「ィヨシッ!野郎ども反撃だ、リッチーズ!貴様の砲は3度上方へ修正、ほかは事前の指示通りにやれ!――合図と共に一斉に放つ……まだだ……まだだ……よしっ――…今だッ点火!」
凄まじい轟音、砲撃の衝撃で船体が一気に傾き、痛んだ木材が悲鳴のような軋みを上げた。
耳がバカになるような音の中、煙が視界と鼻を刺激するのを感じながらも目を見開き、命中を確認する間もなく艦長は手を振り、叫ぶ。
「取り舵一杯ッ! ――…ソフィー号をレキシントンの横腹にぶつけてやれッ!」
「アーイアイサーッッ!」
血まみれの操舵手が狂ったように叫び、一心に舵を回す。
化け物のように急激に回頭し、優美な名前に似合わぬ貪欲さでソフィー号はその顎でレキシントンのおいしそうな横腹へ喰らい付かんと直進する。
満身創痍のソフィー号が煙を上げながら突進してくるのを見て、慌てたのはレキシントン号の艦長だった。
いかんせんタイミングが悪すぎる、ソフィー号の万をじしての一斉射を受けた直後、さしもの熟練船員にも寸分の混乱が生じる……その隙をつかれた突撃。
「奴ら正気か……ッ!面舵一杯……敵艦をかわせぇッッ!」
空気を喰らって突き進むソフィー号の上で、艦長は崩れた手すりを壊れるほど強く握り締め、視線だけで人が殺せそうな強さでレキシントン号を睨み続ける。
そして――レキシントンが回避行動を取るや会心の笑みを浮かべた。
「ふ……ハハハハ!かかったぞ! ――機関長!このまま全身全速、操舵手ッ! レキシントンを素通りしレゾニアの後背部を襲う。ボロディン軍曹、待たせたな!いよいよ空兵の出番だッッ!」
「アイアイキャプテン!」
痛ましく穴が開き、風通しの良くなった甲板で砲手長もまた獰猛に笑う。
「フン、今まで散々撃ってくれたお返しだ。――通り抜けざまレキシントンに一斉射くれてやるッ!今度は左舷、用意――放てッッ!」
凄まじい衝撃、そして大きく船体が傾き戻る。
至近距離での一斉射撃、それも装甲材の限りなく薄い後部を撃たれた事でレキシントンに致命的な損害が続く。
「レキシントン! 後部風石機関損傷!」
「風石保管庫近くで火災発生――」
そして猛烈な爆発、爆風がソフィー号の甲板でも感じられた。
「風石に引火!誘爆した模様…ッ!」
4つある風石保管庫のうち一つが吹き飛び、機関にも重大な損傷が発生したレキシントンは炎を巻き上げながら操舵の自由を失い、あらぬ方向に風に流されながら進んでいく。
撃沈はしないだろうが、少なくともすぐ復旧できるような損傷ではない。目的は達成されたと艦長は注意をレゾニアに集中させる。
一方僚艦が戦列を離れ、背面を取り挟み撃ちにするはずだったソフィー号が僚艦を打ち破り、その影から直進してくるのを見てレゾニアは混乱のきわみにあった。
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